悪夢
蝉時雨。
彼女の他には誰も居ない。夏休み中の中学の図書館。司書室の鍵は当直の教師から、顔パスで借りる事が可能だった。学校という狭い世界では成績を始めとした、外面が全て。
足音を立てずに輪華が来る。背後から手を取る。
為されるがままにする。左手の指を丹念に広げられる。それだけだが背筋に快感が這い上る。
彼女は真新しいコンパスを右手に持っている。パッケージを透明な爪で引っ掻く、包装を解いている。
怪我をさせる前提か殺菌消毒薬で、コンパスの針を消毒した。
無言。互いに。
輪華はデスクを白い指で示した、手を傷付けずにデスクだけを針で突くという仕種。
振り返り彼女の顔を見た。微笑んでいた。宗教画の中の聖女を思い出した。
こちらは左手を広げた状態で静止。
ピアノの発表会を控えていた。残忍なゲームだ。
だが動かずにいた。息を吐いた。
最初からかなりの速度で輪華はコンパスを握った手を動かした。その器用さに息を飲む。不思議と恐怖心が無い。蝉の声が聞こえなくなった。輪華の気が済む迄。あと何周か。
親指の付根に近い皮膚に針が吸い込まれて行くのを目に留めた。
痛覚が麻痺しているのか何も感じない、何故か輪華が痛みを負った様にコンパスを取り落とした。
互いに無言。
また振り返る。彼女は泣いていた。泣きながら消毒を始める。
指ではないので差ほど痛手ではない。この程度なら問題なく弾ける。
血は止まっていなかったが輪華は途中で治療を放棄した。するすると身を屈めてデスクの下に入る。今度はベルトを解いている。
誰も来ない事を脳裏で確認する。未だ蝉の声が止まったままだ。
夏の噎せる様な草熱の香り。違う、草が刈られて行く臭いだ。殺戮の臭い。臭いはするが音が聞こえない。
これをされると輪華に殺される様な感覚になる。だが動かずにいる。
快の渦中で殺される。
暗転。
静寂。
目が覚める。自分の部屋に居る。
冷えた部屋。冬の夕暮れ。イヤフォンからベートーヴェンのソナタが繰返し繰返し暴力の様に流れ続ける。最大音量。
輪華が居ない冬の部屋。涙等出ない。体の内側の空洞化した感覚。全て捧げる事の出来る人間を見つけたと思っていた。対象が居なくなった。目に映る風景も耳に入るあらゆる音も厚い膜がかかっている。薄ぼんやりとしている、色が無い。音の響きが弱い。明瞭ではない。
また目が覚める。今は何処だ。あの冬の21年後。あの夏の22年後。
腕の中に輪華は居る。幽かな呼吸音。隣どころか腕の中に居る。しかし悪夢を見る。
実は悪夢なのか判然としない。夏の夢の中には昔の輪華が居る。また逢いたいと願う。当時は捉え切れなかった彼女の混沌。今なら引き受けられる気がする。あの少女の受難を。